2012年11月30日

ピンクのポンポン★46

お疲れ様でした


三七日
 祖母を亡くしてから初参加 
 初めてコンサートへ来た時は、祖母がチケット代を出してくれて、お小遣いまで貰った。貰ったお小遣いで買ったものは今でも、私の大事な宝物。母からは部屋が狭くて片付けられないのなら、捨てなさいと何度も言われたけれど、私にとっては宝物で、絶対に捨てることができないでいた。その後もことあるごとに、祖母から貰ったお小遣いで、高校生だった私の宝物は増えていった。
 一人暮らしを始めてからは、時々、上京してくる祖母を、よく駅まで迎えに行ったり、見送りに行ったりした。就職してからは祖母の好きな演歌歌手の舞台チケットを買って、祖母を東京へ招待したとも何度かあった。そんな祖母にガンが見つかったのは去年の秋のことだった。
 祖母は祖父が亡くなってからはずっと一人暮らしで、私の実家からも少し距離があった。何かあると大変だからと、父は同居するように誘ったが、祖母は身の回りのことができる間は今の家の方が良いと断り、そのまま一人で暮らし始めた。
 父は毎晩、必ず電話を掛けていたし、私も一人暮らしを始めてからは淋しくて電話を掛ける機会が増えていた。電話で話す時の祖母はいつも元気で明るい声だったし、最後に上京した時も元気そうだった。でも、去年の夏、突然、祖母は病魔に襲われた。『突然』という言葉は違うかもしれない。祖母は身体にだるさを感じるようになるも、夏バテだと思って、父には何も言わなかったらしい。でも、ある日、珍しく祖母に買い物を頼まれた母が、頼まれたものを届けると、明らかに様子が変だっので、そのまま病院へ連れて行くと、祖母は血液検査を受けた後、処置室で栄養を補う点滴を打たれた。しかし、その間に母は診察室で他の大きな病院での診察と入院を勧められ、紹介状まで渡された。翌日、両親に伴われて祖母が紹介された病院へ行くと、前日の血液検査の結果が既に転送されていた。診察の順番待ちをしている間に、父が看護師に呼ばれた。もしもガンであった場合、本人への告知をどうするか?ということの確認だった。父が絶句すると、看護師から、取り敢えずは告知せず、気持ちが変わったら、医師に伝えて欲しいと事務的に言われたとのことだった。
 診察と検査が終わると、父は祖母が疲れているだろうからと、母と祖母を先に帰してしまい、一人で検査結果を聞いた。結果はガンで、手術できなくもないけれど、体力を考えると、手術を勧めることが難しいと言われたとのことだった。勿論、手術を希望するのであれば、もっと詳しい検査が必要だが、もしも転移していれば手術は不可能とのことだった。
 「まだ80歳と解釈するか、もう80歳と解釈するか、考え方や体力の差も個人差が大きくて、判断が難しいのです」と、医師も何とも言えない状況であったらしい。父が、放置した場合の余命を訊くと、やはり個人差が大きいけれど、年齢的に一年くらいではないか?と言われたとのことだった。
 早く結論を出さなければならなかったため、その次の週末、兄と父が上京してきた。お盆前に私が一度帰省すると、祖母が自分の病気に気付いてしまうからという配慮だったけれど、事情を説明されていなかった私は見合い話でも持って来れるのだろうと思い、仏頂面で父と兄を出迎えた。
 珍しく、ホテルのラウンジへ向かったので、ますます不機嫌にしていたら、父から祖母の症状を聞かされたのだった。涙が止まらなくなったった私に、父が言った。
 「結論を押し付けるつもりはない。お前ならどうしてあげたい?」
 何も答えられなかった。祖母は余裕で百歳を迎えると思っていた私にとっては、信じることのできない現実だった。まだ八〇歳で、二ヶ月程前にも祖母は東京へ遊びに来て、一週間程、私の世話を焼いてくれていたのだ。
 結局、その日は結論が出ないまま、父と兄は帰って行った。そして三日後、父から手術は受けさせないとメールで連絡が入った。祖母の余命が決められてしまった様にさえ感じた。
 その後、祖母はお彼岸までの二ヶ月程は母が家事を手伝いつつ、今迄通りに一人暮らしを続けた。そして十月に入ると、私の実家での同居生活を始めた。祖母はもう一人暮らしに戻ることもないだろうからと、殆どの家財を自分で処分した。着物は上等なものを除いて、古着屋へ売り、家具も嫁入り道具として持ってきた箪笥と鏡台以外は全て処分していた。だから、祖母のために用意されていた六畳の和室の押入れには、祖父の形見と家族との思い出の品、アルバム程度しか入っていなかった。
 お正月、祖母は楽しそうに台所に立っていた。母も私も祖母のお正月料理の味を残そうと必死だった。春はお花見にも出かけた。でも、ツツジの花が咲き始めた頃、祖母は急に動けなくなった。家の中なら問題ないが、外出が難しい状況になってしまった。医者が父に説明し、その父から聞かされていた通りのことが起こり始めていた。
 そして、紫陽花が満開の頃、医師の診断よりも一ヶ月程早く、祖母は静かにおだやかな表情でこの世を去ったのだった。

 祖母はいつでも、電話や会う度に、コンサートへは行ったの? 舞台はどうだった? TVで見たわよと明るく話しかけてくれていた。可愛がって貰っていたのに、曾孫以前にお婿さんの顔も見せてあげられなくて、ごめんなさい。
 でも、亡くなった今だからこそ、今日からは祖母と二人で参加している気持ちでいたいと思いながら、私はピンクのポンポンを鞄から取り出した。もう、コンサートに出かけても話を聞いてくれる人もいなければ、あの日みたいに会場の外で、
 「お帰りなさい、楽しかった?」と出迎えてくれた祖母は、もう居ないけど。

mokkon at 22:00│Comments(0) 妄想小説 

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